The impact of block chain which was born

 

ブロックチェーンの誕生のインパクトは、既存の社会システムを根底から否定したところにある。ブロックチェーンの技術が高度であったり、先進的であったりするものでもないし、社会システムそのものを記述したものでもない。ブロックチェーンが既存の社会システムがなくてもサービスが成り立つように設計されたところにある。既存のエンティティや慣習を不要としているのだ。

悪いことをする人がいれば、悪いことを取り締まる人を必要とする。間違える人がいれば、正す人がいる。人が集まれば、統治する人がいる。性悪説を前提として、悪を排除する仕組み、そしてそれを正しく運用する主体を必要とする。

民主主義下においても、為政者と同じような役割をする人が必要であり、それが民主的だったり、経済的競争によって自然発生的にだったりして、誰かが担う。そしてそこには経済的コストを要する。政府や銀行、サービスを提供する企業だったりする。

 

今、Facebookをはじめとするソーシャルメディアは、政府が保有する情報以上の情報を個人が個人の責任下において登録すると言う行為に依拠して保有している。銀行は、金融資産のトランザクションという現代生活に欠かせない経済行動記録を銀行というサービスを提供し、これも個人の責任下においてそのサービスを利用するという行為に依拠して保有している。個人は現代的な経済活動を拒否することなしに、これを拒否できないし、社会的なコンセンサスはそれを当たり前と捉えている。

 

ブロックチェーンはその仕組みによって、否定した。新たな社会システムを生み出したのだ。正確には生み出す可能性を証明してみせた。

これがブロックチェーンの衝撃である。

 

この衝撃を受けて、ボヤッと考えていることが、企業の成長や社会の柔軟性は、採用するシステムアーキテクチャに深く依存しているのではないかということだ。これだけだと、当たり前だろそんなのと言われるだろう。しかし、それでは、企業は何故、成長のためのシステムアーキテクチャを採用しないのだろう。コストとインパクトが見えていない。そのシステムアーキテクチャは何か見えていない。現時点では既存のシステムアーキテクチャのほうが効率的である。などが考えられる。

最大の理由が既存アーキテクチャと既存社会は深く結びついており、社会が変わらない限り、新たなアーキテクチャの効果が発揮されにくく、結果として既存アーキテクチャの効率性が維持されていることが挙げられるのではないだろうか。

しかし、ジワジワと新たなアーキテクチャが浸透してきており、いつかは臨界点を超え新たなアーキテクチャが広がってくるだろう。アーキテクチャと社会は相互作用を繰り返しながら新たな地平に移行していくのだろう。

この仮説に乗れば、すでに新たなアーキテクチャに移行している、移行しつつある領域はあり、これからそれらが広がってくるはずである。それが何であるか同定することで、次なる世界を見いだすことが可能になるのではないだろうか。

 

インターネット

ソーシャルメディア

マイクロサービス

 

 

プログラムは、考えだとか、ロジックだとかプロセスを記述したものであるが、一度書けば残るという特徴がある。多くの人が記述したものが残り続けていてそれがインターネットによって共有可能になっている。現代人が小説や史実などで参考にする「偉人のあの時の判断」も、現代であればプログラム化されて後世で利用される。プログラムコードという形態で伝承され利用される。

 

であれば分割してマイクロなファンクションにして、誰でも利用しやすい形態で共有することで様々な用途で参照される。APIによって常に呼び出されて利用される状態にする。